吾輩は猫ではない
K駅近くの繁華街
人の香りが混ざったような
ネオンの明かりが歌い出す
カルキが残る水を泳ぐ
魚群を照らす昭和歌謡
× × ×
仕事終わり、友人と待ち合わせをして、軽く飲もうということになった。K駅前の富士そば前。あの子のラインに既読がつかないのを、少し寂し気に眺めつつ、まあ忙しそうだしなと思い直して、ケータイで将棋を指す。
「ちょっと金おろしてくる」
いつの間にか合流していた友人Yは、僕に声をかけ、目の前のATMに向かった。いつか、彼と、うちの大家(田邊氏)で話をしたとき、SNSは豊かでない。人生を豊かにするのは実経験だと言い張っていたのに、いつの間にかインスタにドはまりして、使い方によっては豊かだとかなんだとか言い出した。ぶれてるって言ってしまえばそうなんだが、非情に人間らしいし、そうやって新しいものを貪欲に吸収できるのはいい事だ。
そんな豊かポリスの彼と、カルキが残った水のような繁華街をふらふらと歩く。エンジェルハートと書かれた怪しい看板を通り過ぎ、なんだかよく分からない店の前で立ち止まる。以前にもここの前を通り、のぞき込んだ僕に、謎の男(?)が飲食店ですよ、と声をかけて店の中に消えていった、魔窟のような店である。繁華街の道から見える店内は、あまりにも多すぎる書籍や、レコードのようなもので埋め尽くされ、外観には美術展のポスターが大量に貼ってあった。
「ここ結局何屋なんだろう」
と、中からあの時と同じ男が出てきたのが見えた。正直この時、あ、なんかこれ絡まれるな、という空気が僕とYの間に流れたのをよく覚えている。
「あなたたち、この間もここのぞいてた人でしょ?ちょうど今ね、予約入れてた人たちが時間通りに来ないもんだから。もうキャンセル。今は入れますよ。うち飲食店だから。入口こっちね。えーっと、あ、今席を…」
柄々のシャツに白髪交じりの長髪。ラムネの瓶の中に残ったビー玉みたいな目をぎにゃりぎにゅありとあちこちに向けて、矢継ぎ早に言葉を続ける男。半ば、というよりももはや普通に強引に店内に連れ込まれる僕とY。
店内にはあまりにも物がありすぎて、わずかしか人の入れるスペースしかないのであるが、そこは雑多というにはあまりに美しく、ある種理路整然という言葉を思いうかんでしまうように積みあがった、大量の書物とレコードの山。土と人の意志が混ざり合ったような異様な匂いが鼻をつんざく。僕とYはもともと店主が座っていた、ギリギリ2人は入れるくらいのスペースに案内された。
店主が用意した椅子に座ると、店主はその後ろに立って、資料やら何やらを漁る。
缶ビールとその場で洗ったであろうコップが二つ用意される。ビールが注がれると、袋に入った砂糖菓子のようなものを手渡される。結構な量だ。
「これはですね、〇〇という有名な店のパテシエにレシピを教わって私が…」
この店主の特徴として、とにかく矢継ぎ早に話す上に、固有名詞がとにかく多いため、正確にはっきりとは内容を覚えていない。しかし、奇妙なことに、その場では彼の声はよく聞き取れるし、なんだかよく分からない説得力を持ち、好奇心を煽られる。まさしく彼が創造した空間に引きずり込まれたかのような感覚を得た。
と、目の前にはレコードとカセットのプレイヤー。唖然とする僕らに、店主はどこからともなくレコードの束を取り出して渡してくる。
「この中から好きなのを選んでください」
Yは大量のレコードを受け取り、危険が迫った猫のように固まっている。
「あなたたちはなんでこの店に入ろうと思ったの?」
正直言うと、奇妙さ奇怪さに目を引かれてたら強引に連れ込まれたから、であるので、言いよどむ。答えようがない。逡巡の間にも言葉の蛇口は閉まらない。
「あなたは何に興味があるの?音楽?美術?」
「…美術が好きで、ポスターが沢山貼ってあったので」
圧倒されながらも言葉をひねり出す。一応本心である。
「美術?どのような?」
「西洋美術ですかね」
「西洋美術のどういうのが好きなの?」
「シュールレアリスムが好きです」
この間体感5秒くらい。フリースタイルラップがごときやり取りに一転して、僕の言葉を聞いた後、彼は一拍言葉の蛇口を絞めて、ずむっと手を差し出す。お気に召したらしい。わかりやすくそっちの人だと思い、僕もそれにこたえる。
「とりあえず今ここに在るレコードをかけます。これは最近仕入れたもので、大変貴重なものです。あなた、これが終わるまでに次の曲選んでおいてね。あなた、ちょっとそこのレコード取れる?上から10枚くらい。そっちじゃなくてそっち。そうそう。10枚くらい。ありがとう。大丈夫です。ここに来るのはあなたたちくらいの年の人ばかりですから」
先ほどの質問にうっかり音楽と答えたYは大量のレコードを抱えている。
「あなたたち仕事は?」
「テレビのADやりながら脚本を」
「僕は映画の撮影部をやってます」
「あら、すごい。ADさんにカメラマンね。それじゃあまずあなた。あ、まだレコード選んでるのね。それ選んだ?はい。あら、すごいわね。あなたこれ知らずに選んだの?これは大変貴重なものになってます。じゃあこれをかけましょう。そしたらね、そこの山にある上から三番目の薄い本とって。ちがう。それじゃない。そのうえ、そうそうそれ。カメラマンならそれをみなければ」
ずっとこの調子である。まず、僕らが驚愕したのは、この山の中のどこに何があるのか、そして、それをいつ、だれから手に入れたのか、などの詳細をほぼすべて把握しているということである。
「それで、あなたには、そうね。まずはこれを見なさい。福沢一郎という人の画集で、大変素晴らしいものです。それでね、シュールもいいのだけど、リアルなものがあってのシュールですから。そこに積んである上から二番目。そうそう。それ。」
どうやらこの店では、入ってきた人間それぞれにふさわしいものを閲覧させるという店らしい。レコードに針を落とす。セピア色の匂いがする音楽。同じ調子で解説をしたが、レコードの音が“強すぎて”全く記憶にない。僕の頭には注文の多い料理店がよぎる。
僕にぼむっと手渡されたのはボロボロの古文書のようなもの。中を開くと
葛飾北斎
そう書いてあった。意味が分からない。
「その本は北斎の浮世絵の原本で、大変貴重なものになっています。現存するのは3点のみで、1点は〇〇美術館、もう1点は××美術館、そして、最後の1点を私が所蔵しているという形になります。これは〇〇××年に私が譲り受けたもので…」
いやいや。スナック喰いながらこんなもん読めないでしょ。仮に売りに出したとして、値段もつかないような、ほぼ国宝みたいなものじゃないか。そのあと出てくるのも、アニメーションのセル画原本。絵コンテ。ガンダムのエルメスと、ウテナの処女喪失のシーンがあったのは興奮した。そして、北斎漫画の原本。ゴッホが参考にしたという春画。その間流れているのも、もはや普通に生活していたら絶対に手に入らないであろうレコード。脳がバグる。
他に衝撃的だったことをいくつか挙げると、
・店主はどうやら某国立美術館の立ち上げにかかわった人間らしい
・美術館で行われる企画展など、彼がかかわっているものが多く、僕が行った展覧会の中にも、彼が展示を設計しているものがあるらしい。
・ガレのガラス細工など、結構なコレクションを所持していて、企画展の際に、彼のコレクションから展示されているものもあるらしい
・現在所有している作品等は、近い将来全て国に寄贈するらしい
× × ×
吾輩は猫ではない
人の形をした何か
水増ししたセピアの渓流と、血と肉と、晩春の桜の匂い
レコードの針が示す方向に、青白い光が集まっていく
ガラスのビー玉を筆として、その光で色を付けていく
白黒の世界はカラフルな白黒の世界に
ビー玉の奥には何がある?
僕はやっぱり猫ではなかった
人の形をした何か
× × ×
冬の夜のような、しかし暖かい時間だった。
「そろそろお暇しようかと」
「それではお会計を計算します。ここでは時間制をとっていまして、優に一時間はいましたから…」
どういう計算なのかはよくわからないが、飲み屋にしては割高な金額。
「あなたたちには最後にこれを渡します。そういうお仕事をなさっているのであれば、これは絶対に見なければいけないでしょう」
そう言ってメスキータ展のチラシとチケット、それから、工芸館の招待状を渡してくれた。
「最後に記念撮影を」
店頭で写真を撮って、握手して店を出る。
美しいものをシャワーのように浴びて、カルキの残る街に戻っていく。
× × ×
タイヤ痕、曲がったガードレール
巨大モニター、アーケード
キャッチの女とサラリーマン
げろ吐く若者、腰曲がった老人
血肉詰まった皮袋
存在していて存在しない猫
ーーーやはり、人の形をした何か
(了)