Jeepers Creepers

眠れない夜を、語り明かせるシェアハウス

ピエロという生き方

 

陰キャ式田邊裕貴論~田邊裕貴は人間ではない~を受けて。

どうも、ゴトーです。
いいえ、後藤です。現在鳥取在住の後藤です。初めましての後藤です。
後藤新さんの記事を僕の記事だと思って読んでいらっしゃる方を複数確認されたので、 なんとなく癪だなということで寄稿に至りました。 ちなみに田邊裕貴との付き合いは小学からになります。
こんな形での寄稿なので、ゴトーさんの記事に対応して、田邊裕貴が天才である理由を 勝手に想像しながら(場合によってはフィクションととらえながら)、10代後半から 20代前半の若者の在り方にも触れていきたいと思います。
そして最初に言っておきますが、僕は「田邊裕貴」をメンター的な存在としてみたこと は一度としてありません。本当はこういう話については僕がトップを走っているという謎の確信があるので、自分語りを惜しげもなく書いてから自分をモデルケースにして書 いていきたいのですが、不本意ながら、モデルケースとして、わかりやすさに関していえば田邊裕貴を取り上げるほうがいいと思ったので、彼を中心に書いていきます。
では......行きましょう。

 

 

いきなりですが、田邊裕貴は天才だったりはしません。天才になっているだけです。文章的には全く意味が通じませんが。これは事実だと思います。
どういうことか。
実質的には彼は天才ではないが、
自分で勝手に自分のことを天才だと言っているだけ、ということです。
そして、本来はこんなことすら想像させない。思わせない。言わさない。それが天才田邊裕貴の最後の目標であるということ。
......と、私は勝手に思っている。 あくまで私の彼への解釈であり、現実が是か非かは問いていません。彼に対して無思考 に「後藤さんがああいってたからこうなんだ」と解釈することは許しません。 ここまで聞いて、この後の展開が読めるのであればこの先を読む必要は全くありません。 それが実際には全く違うことが書いてあっても、です。
とまぁ彼がそういう人物だと仮定すると、ここで一つの疑問が生まれます。

 

「なんでそんなことするのか」

 


単純です。この時代、この世界、この環境、ひいては自身の保心のために、彼は何が必要かを考えたからです。
それがピエロになることなのです。※適当な造語なので各人の解釈で読み進めてください


なぜこの思考に至るのか、それはジュノンスーパーボーイコンテストを避けては通れな いと僕は考えています。 彼、曰く天才田邊裕貴はジュノンスーパーボーイコンテストに応募して、地元票とはいえ、良くも悪くもそこそこいいところまで行ってしまいました。当時私たちは受験シー ズンでピリピリしていたり、そうでなくとも知り合いがジュノンになりかけている。平常心でいるほうが無茶みたいなものです。田舎民的には、特に。そうした結果、彼の生活が普段とは違うものなったであろうことは想像に難くありません。実際に有名税的な 被害があったかはわかりませんが、少なくとも、望まなくとも人の目にさらされることが多くなり、それを容認しなければいけない立場に立たされていたことは事実です。 そして、不幸にも彼は負けず嫌いでした。だから、全力で勝ちに行こうと「は」した。 その手段が自身の「偶像(アイドル)化」つまりピエロになることだった。かなり当たり前の手段であり、方向性はともかく誰しもが思いつく手段です。結果、グランプリになることはありませんでした。 ここで彼は自由になったはずですが、彼は頑固ですし、僕によく似てるし、このあと、 どういう心理で今に至ったかなんとなくわかります。(とは言いますが、あくまで僕の解釈なのでよろしくお願いします)
コンテスト終了後、半年から1年半くらい。その間種々の試行錯誤や、実験の結論とし て、彼は「天才」でいることにしたのです。
彼は、コンテストを通して「偶像化」という概念を密に経験した。 彼は、そうでもしなきゃ「勝てない」相手がいると知った。 彼は、そうしても勝てないほうが多いと知った。 そして、彼は、もともと格好つけだった。 自信家でい続けることを自分で求め、さらには他人に求められた。 だから、「ピエロ」でいることにした。 田邊裕貴が「田邊裕貴」たらしめる最高の適語であり田邊裕貴が「田邊裕貴」になるために必要な、素質

 

それが天才


そんな感じです。実際には彼は「クラウン」のほうがあっているような気がします。単語の認知度的に「ピエロ」を使わせてもらいました。 めっちゃ適当に人の心解説しているので、フィクションだと思ってくれてもかまいませ ん。ですが、こういう人もいる。ということだけは胸に刻んで帰ってほしいです。途中で、「のちの展開が読めるならブラウザバックしていい」と言ったのは、これが分かっ ている人や、こういう人は多分あの段階で察することができるからです。 時間の無駄なのさ。
そして僕が語りたいのは「田邊裕貴」ではない。 彼を通してみる、「在り方」である。 ココからはほぼ締めというかまとめなので、気持ち楽に読んでください。

 

彼を通してみる、私たちの在り方。
私たちが中高生だったころを思い出してください。
当時流行りの言葉がありました。
「キャラ」です。 あいつはこういうキャラだから。俺はこういうキャラじゃないから。そんな言葉をよく 聞きましたよね。僕たち世代や、僕たち世代より若い人ならばとても良くわかると思い ます。 これは別に僕たち世代だけ、というわけではありませんが。僕たち世代なら今のうちによく考えてみるべき事案だと思っています。 僕たちはいつの間にかどこからか与えられたキャラクターを演じきって、それを完全に遂行していた。それが居心地よかった人もいれば、悪かった人もいるでしょう。 つまりこれ「ピエロ」や「クラウン」とどう違うのか。という話です。 性質、それが及ぼす結果。全くと言っていいほど同じなのです。 ただ、一つだけ違うものがある。そしてこれが人生のどの瞬間においても大事だと思っていて、僕が啓蒙的記事を書くとすべてこれに帰着するほどです。
その違い。

 

自分で成ったか、そうでないか。


ただそれだけです。 かしこまった言い方をすれば、外面的人格(ペルソナ)を自己的に選択したか。 クラス制が生んだ社会的側面は多くの場合において、押し付けられたものです。一度押しつけられた仮面はそう簡単にはがせない。 だから私たち「ピエロ」や「クラウン」は仮面を白塗りにするのです。
これをもって僕は「過去は変えられる」なんて言ったりもしますが、メインテーマではないので割愛。
僕たちは自分の在り方を正しく自分で選ぶべきなのです。ピエロになれとは言いません。 今つけられている仮面が満足できるか、出来ないか。そのどちらかを選ぶだけでいい。 望むべくして手に入れたならそれでいいし。不本意な仮面をつけてしまっている愚図なら、環境を変えるか、強引に仮面をはがすか、最悪ピエロになればいい。甘んじてそれを受け入れているならば、君は前者なのだ。本当は満足しているんだ。
いろいろと言いましたが、意外と多くの人間が「ピエロ」として生活しています。自分がピエロだと思う人間はほとんどの人間が「普通人」だと思っていますが、彼らも「普通」という仮面を修羅の心で付けている方も意外と多くいるということを知っていてください。それらを認知すること。他人の(意外そうな)背景を想像すること。なんてものをしてほしいのです。そうしたらきっと、仮面なんてものをいつの間にか忘れていたらいいな、なんて、そんな風に思います。

 

 

f:id:yuuki167a:20190410181802j:plain



 

解説「天才たなべ」

いやぁ、ついにこいつと共演する時が来たか。

と、自分の老いを感じました。

紹介に預かりました。この仮想シェアハウスの大家こと天才田邊こと、

田邊裕貴です。

 

今回、後桐澪氏から寄稿を頂きました。

ありがとうございます。

 

彼は小学時代からのライバルであり、犬猿の仲であり、親友ではないかもしれないが切っても切れない縁があるような関係でして、

それは後になってから感じていたのではなく、お互いに小学生の時から感じていたと思います。

あと上記の関係というのはあくまで「客観的に見て」であり、当事者同士はもっと別の感情を持っているのではないかと思います。

だからお互いに妙な距離感がありまして、今までなかなか何かを一緒にするとか、ましてやこういう「共演」的な事って少なかったんですね。

と言いつつ一緒にラジオやってた事もあって。

あの企画またやりたいなぁっていう感じではあります。

 

とにかく自分とは余りに違うようで近い人間であるので、本質的に彼の事を理解出来るとは思ってません。

多分、お互いにね。

 

で、このシェアハウスに住んでるほうの後藤さんの話もします。

多分公に語った事はないので。

 

後藤新氏は、専門学校で出会った同級生です。

この人もまた、自分とあまりに違うようで近い人間であり、澪さんとも余りに違うようで近いです。

20年生きてますが、自分にとってそういう人間というのはこの人たちくらいなもので。

その2人が2人ともゴトーさんだなんて、神様もちょっとは遊び心があるんだなぁと思ってます。

 

さて、そろそろ本題について語っていきたいところですね。

 

澪さんの寄稿、大きく分けると、「田邊裕貴が何故天才を名乗るに至ったか」「彼の言う天才とは何か」「そして我々は何者か」というラインナップかなぁと思いますが

それぞれのテーマについて僕自身の見解を書いておきます。

 

田邊裕貴が何故天才を名乗るに至ったか

 

確かに、ジュノンスーパーボーイコンテストの存在は大きいんじゃないかなぁと思います。

自身の「アイドル化」ですよね、分かります。確かに意識的に行いました。

ただ俺がアイドル化したのは当時僕を応援してくれていた人なら誰もが知っていると思いますが「#なりかけジュノン」であって、「天才たなべ」というのは俺が守りたかった田邊裕貴です。

だからといって「天才たなべ」が本当の自分かと言うときっと違います。

だから澪さんが言うように「天才たなべ」は作られたピエロですし、「#なりかけジュノン」の登場によってその存在がくっきりはっきりしてきたというのが俺の解釈です。

 

それについては

 

 

 

 とか、当時のBlogでもそれっぽい事書いてます。

 

ただ、結局「天才たなべ」も仮面である事に違いないです。

 

 

 

 

 

 

「天才とは何か」

 

という説明のために、澪さんは中高生の事をあげていますが

僕がこんなピエロでクラウンな人間になったのに特別な理由はなく、

澪さんの言うような事から始まっていると思います。

 

これが私の生存戦略です。

 

澪さんはまとめの部分において

 

 

「自分で成ったか、そうでないか」

 

「それに満足しているか、否か」

 

という事を言っていますが、その4つの要素はそれぞれ独立して存在してるから

世の中には「自分で成ったにも関わらず不満足なピエロ」だって沢山いるんですよね。

 

僕はよく目立つし、ピエロだって事も分かりやすいから

皆が僕をピエロとして扱ってくれて、僕は公にピエロという事を晒しながら生きていけるピエロ的には幸せな生き方をしていますが。

澪さんの言う「普通」という仮面の下に修羅の心を持つ人はそうではありません。

目立たないし、周りは「普通」だと思っているからです。

僕も生まれつきのピエロではありませんから、「普通」が重たい事は知っているつもりです。「普通」の仮面を持っていない訳じゃないですし。

 

新さんの書いた「隠キャ式田邊裕貴論」は、「田邊裕貴はピエロだよ」っていう記事で、澪さんの書いた「ピエロとして生きる」は「田邊裕貴だけがピエロじゃない」っていう記事ですよね。

 

実はこういう話はどちらの後藤さんと会ってもよくする話で、

どれに注目しても皆修羅の道を選んでるね。っていう結論に至ったりします。

我々はあまりに違うのにも関わらず、近い。

それだけは忘れてはいけない。

 

 

 

僕も、ゴトーさんも、後藤さんも、何だかそれで苦しんでる人を見てものづくりに励んでるようなところがありますよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2記事とも自分にとって本当にいい記事です。多くの人に届いて欲しいと願い、僕は活動を続けます。

いつか本にしたいですね、お二人さん。

いつか皆違ってみんないい。だなんて軽々しく言える世を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fin.