お疲れ様です。レミゼに嵌りまくってる後藤です。
いやーいいですよね、民衆の歌。
もうラストでアレ流れれば全部許されるし感動できる。カタルシスがすごい!
それはさておき、音楽が人に与える影響って莫大だと思ってまして。
それも思春期っていう最も心が敏感な時期に聞いた音楽って言うのは、人格形成に絶大な影響を与えるんです。
聴く音楽と言えばJAMProjectというグループを中心にアニソンや、筋肉少女帯などの変わった世界観のロック、SlipKnotなどの洋楽メタルやハードロックでした。
私は決して流行り音楽を聴きませんでした。なぜか?
流行ってた歌大体全部なんかふわっと嫌いだったから。
私は小学校でネギまという漫画に嵌ってから今まで、長い間オタクをやっている、カースト底辺に近い場所にいる人間です。その人間視点からみた、ゼロ年代音楽について、いろいろ書いていこうかなと。
以前ニコ生で、漫画家の山田玲司さんが似たような話をされていまして、そこからいくつか用語を引用させていただきます。
ゼロ年代にオタクやってた奴にしかわからない、ふわっとした嫌悪感の正体を、なんとなく説明していきます。
今回はゼロ年代~10年代初頭に学校で起こっていたスクールカーストの二分化についてはなします。
※注意
特定のミュージシャンとそのファンに対する批判が含まれます。
極論を言ってる部分があります。鵜呑みにしないでください。
筆者はgreeeenのeの数がいくつか知りません。ご了承ください。
漫画家の山田玲司先生と言ってる事が重複している箇所があります。気になる方は「山田玲司のヤングサンデー」で検索してみてください。
1.分裂するスクールカースト上位層
陰キャから見たリア充なんて、どいつもこいつも同じでつまらん。そう思っていた時期が俺にもありました。
ゼロ年代、明らかにリア充と呼ばれる人たち、スクールカーストで上位に君臨する人たちは2パターンいたと思っている。
音楽の記事なので音楽で例えると、greeenとサンボマスター聞いてる奴らと、エグザイルと湘南の風聞いてる奴らである。
山田先生の用語をお借りすると、
「ぼくら族」と「うちら族」である。
(本家と私の記事での区分けの仕方は異なる)
うちら族というのは、早い話パリピ集団であり、地元サイコー集団、仲間サイコー集団、レゲエ砂浜ビッグウェイブな人たちである。
地元の仲間と集まって騒ぐのが好きな人たちで、学校辞める度胸はないのでヤンキーまではいかないが、カースト上位に陣取るマイルド化したヤンキーである。
そいつらのノリが湘南の風やオレンジレンジの空気感とマッチしたため、ヒットしたのではないか。
対するぼくら族というのは、日常に大きな不満がなく生きている人たち。ヤンキーとかではないが、なんとなくクラスのまとめ役だったり、文化系の部活で活躍してたりとかでカーストが高かった人たちに、ポップ化したオタクたちや、オタクを脱出したが、リア充になりきれない奴らが合流した集団である。
サンボマスターは、もともと底辺にいた奴らが、音楽という武器を得て自己表現している集団であると解釈していて、そいつらの声が元オタクの奴らや、文化部上位層にマッチしたのと、greeeenや、ゆずの日常っていいよねという空気が受けたために、ヒットしたのではないか。
元オタクの奴らと文化部上位層は別の民族ではあるのだが、元オタクの奴らは文化部上位層にくっつく傾向があるため、ひとまとまりで考えるものとする。
※オタクのポップ化については岡田斗司夫の話がわかりやすいので、それを踏まえたゼロ年代オタクの記事として後ほどまとめます。
このように、ゼロ年代とは、スクールカースト上位層がマイルドヤンキーである「うちら族」と、文化系リア充とそれに付随する元オタクの「ぼくら族」に二分化にした時代である。
2.あぶれた男達の楽園
誰もがみんなどっちかの空気になじめるわけではない。
中にはあぶれる奴らもいるだろう。
そういう奴らは何をしていたのか?
コア目なサブカルに流れたのだ
ゼロ年代とは、涼宮ハルヒ、初音ミクなどが登場し、オタクのポップ化が進んだ時代だ。ポップ化したオタクの一部は晴れてぼくら族に合流を果たす。
残された人たちで作られた集団が「俺たち族」である。
この集団は基本的にこの集団でしか通じない共通のある種マニアックな趣味によって結ばれている。
モノノフ、V系、萌豚などと呼ばれているものはここに属する。アイドルオタクやアニメオタク達、バンギャの人たちが、上位層をシャットアウトして自分たちだけで楽しみだしたのだ。
こいつら、何が強いって、基本的に異性の目を気にしない。故に自分の世界にただただ没頭する。関わるのは同一趣味の狭い仲間だけ。
こうしてあぶれ者たちの楽園が完成した。
3.嫌悪感の正体
私はオタクではあったが、俺たち族からは一歩引いたところにいた。彼らほどはひとつのことに熱中し切れなかったのかもしれないし、あるいは熱中するものが彼らとはずれていたのかもしれない。
上位層とも普通に会話はするし、仲が良かったやつもいるが、特定のグループにいつもいるというよりか、色んなグループにときどきいるタイプの人間だった。
早い話どこにも属せないオタクだった。
そんな人間からすれば、ゆずやGreeeenの言ってる日常っていいよねって部分が気持ち悪かった。非日常に浸るための音楽だったのに。そりゃいい感じのお兄ちゃんたちがギターかき鳴らしてんだから、お前らは日常楽しいわ。俺はそうじゃない。
サンボマスターはもともとこっち側の人たちだったのに、音楽と言う武器を手に入れていきってる。それが悪いとは言わないが、それに付随するファンはオタクをいじめてる元オタクだ。
内輪ノリの押し付け、仲間って良いよなみたいな奴ら。昔はやんちゃしてたけど俺たち音楽やれて幸せですオーラが本当に耳障りだった。氣志團はいいよ。「俺んとここないか?」って言う提案だから。レゲエや砂浜になじめない奴は仲間じゃないからはぶろうぜって言ってるようにしか聞こえない。
俺の仲間たち(=オタクや閉じこもり)がデスクトップの前で動けねえ理由を作ったような奴らがありがとうありがとう連呼してるだけの音楽が流行ってたのが本当に許せなかった。
感謝の前に全員謝罪しろ
要するに、他人を不幸にした奴らが、それを省みずに音楽でいきってる感に対して嫌悪感を抱いたのだ。
最後の部分は恨み辛み妬み嫉み僻みしかありませんでしたが、ゼロ年代サブカルは、ポップ化したオタクとマイルド化したヤンキーの文化だと思っていて、それが面白くもあり、人によっては気持ち悪いんだと思います。非常に興味深い。
次回はゼロ年代オタク論について話そうと思います。お疲れ様でした。
(了)