お久しぶりです
ゴトーです。
まずはこの記事を
「頑張れ」と似てて、つい言ってしまいがちな言葉。
「可哀想」っていう言葉、軽々しく使ってないだろうか?
可哀想という言葉
可哀想ってどういうことだろうか。
字面からいくと、
哀しいことを想像できる
ってことだ。
人の同情を誘う様子のことを可哀想っていう
可哀想と頑張れは似ている
無責任な「頑張れ」が人を追い詰めるという話は、以前、田邊さんが書いたウルトラマーベラスな記事、「応援の品格」にて述べている通りだ。
それと同様に、無責任な「可哀想」も人を追い詰める。
周囲の言葉は強い影響を与える
頑張れとたくさんの人に言われると、どんな方向であれ、頑張らなきゃいけない気がしてしまう。
それと同じで、可哀想がたくさん集まると、そうでなくても、自分が悲劇的のように錯覚してしまう。
質の悪い哀れみもまた、人を追い詰めるのだ。
応援も、哀れみも、する側のエゴである
この二つに共通する厄介な部分は、
他人を借りて自分の言いたい事を言う
事である。
応援も哀れみも、一見誰かのためにしているように見える。しかし、決して誰かのためにしているんじゃなくて、
自分がそうしたいからしている
という事に気づかなければならない。
誰かを可哀想って思うことは、自分がこうじゃなくてよかったっていう気持ちも孕んでいる。
そうやって今の幸せを噛みしめる。
誰かを応援する事は、自分のヒーローを求めてる都合のいい状態だ。
不幸エンターテイメント
人の不幸は蜜の味、なんて言葉が昔からあるように、他人の不幸っていうのは面白い。
可哀想って言葉を吐いて、誰かを哀れむふりをして、面白がっている事を決して忘れてはならない。
鍵の呪い
Keyというゲームのメーカーがある。
ゼロ年代に散々流行ったのだが、簡単に言うと、
「ピュアで繊細な美少女が様々な理由で追い詰められて行く様子を泣きながら見るゲーム」
をたくさん作っている会社だ。
まさしく「可哀想」をエンターテイメントに昇華させた例である。
一時期アニメもラノベもそんなのばかりだったよね。
可哀想と言う人は可哀想を楽しんでいる
可哀想って言いながら泣くのが面白いって事は、多くの物語が証明している。古代ギリシャの頃から悲劇ってのはあったんだ。
シェイクスピアの名作はみんな悲劇だ。
悲劇を見る時、私たちは一方的な思いを主人公に重ねる。私がもし主人公ならこう思うに違いない。だからこの主人公は悲しい。だけど実際の私はそうじゃない。ああ今私は幸せだ。
そんなプロセスだろう。
一方的で無責任だ。
悲劇っていうのは、世界に溢れてる質の悪い一方的な哀れみを利用した金儲けの手段だ。
可哀想って思うのって気持ちいいんだよ。
義憤ということ
可哀想な人の代わりに怒る人もいる。
自分が被害を受けたわけでもないのに。
こんな可哀想な目に合うなんてひどい!
可哀想な目に合わせた奴を許せない!
委員長的憤怒とHIPHOP的憤怒
哀れみから来る憤怒には2種類ある。
クラス委員長的な憤怒と、HIPHOPのリリック的な憤怒である。この二つは似てるようで違う。
委員長的憤怒
「ちょっとー、A子ちゃん泣いちゃったでしょー。謝んなさいよー」
小学校とかでよくみる奴
被害にあった一個人に対する哀れみから来る、
誰かを可哀想な目に合わせた一個人への怒り
HIPHOP的憤怒
「(白人至上主義的な思想に対して)時々、自分が白人である事が恥ずかしくなることがある」
ーエミネム
昔のアメリカンなヒップホップでよくある奴
不当な扱いを受けている集団に対する哀れみから来る、不当な世間への怒り
哀れみから来る怒り
果たして本当にそのものの立場に立った怒りを表出しているのはどっちだろうか
委員長は果たして、A子ちゃんに同情しているのだろうか?
違うのではないかと思う。
委員長はA子ちゃんを泣かした奴、というより、クラスの和を乱す男子に対して怒りたいだけなのだ。
泣かした男子にも言い分はあるかもしれない。自分の正義に従って行動しただけかもしれない。
委員長は、それを一切鑑みず悪だと言い、粛正しようとする。委員長の正義に沿わないからだ。自分の正義以外の全てを悪と断じた単純な思考である。
哀れみの質
結局委員長は、A子ちゃんの立場に自分がなったら、男の子のことを気に食わないと思うから男の子を糾弾しているのだ。
これは、悲劇を見て可哀想と言いながら泣いている状態と同じだ。一方的で、相手の気持ちなど、実は何も考えていない。
自分が代わりにその立場であったら哀しいと思う事は、感情移入ではなく、状況を仮想しているにすぎない。
そんなものポルノ見てる時と何も変わらない。
この女優とセックスしたら気持ちいいだろうなって考えながらオナニーするそれと何が違うのか。
感動ポルノとはよく言ったものだ。
これらは可哀想を使ってマスターベーションをする、典型的な質の悪い哀れみである。
義憤するHIPHOP
対してHIPHOP的な怒りは別種である。
A子ちゃんがいじめられるのは、人種が違うからだ。
そして、A子ちゃんみたいな人は他にもたくさんいる。
こんな社会っておかしいんじゃないか?
(転じて、こういう話をみんなに聞かせなきゃダメだっていう音楽が昔のHIPHOPのスタイルだった)
思想の多様性を認めつつ、哀れみを通して義憤する。こんな事っておかしいって憤る。これこそが良質な哀れみだ。
哀れまれる側の気持ち
自分が本当に辛い時、どうしてほしいか考えてほしい。
本当に可哀想って言ってもらいたいのだろうか。(そういう癖の人もたまにいるが)
話聞いてくれるだけでもいい。ただ私の気持ちをわかってほしい。もしくは、この目の前の問題を解決してほしい。
そう思うことが多いんじゃなかろうか
同情したふりをして自分を重ねたり、義憤にかられて何も関係ない奴が個人を攻撃したりされても、何だこいつとしか思わない。
君と私は違うのだから、君の感情と私の感情を一緒だと思うのは、おかしな事だ。
良質な哀れみ
自分が同じ状況の事を想像して自分のために悲しむんじゃない。ただ目の前の友人が悲しそうにする事を隣で悲しむ。
誰かの為にと言って個人を攻撃するんじゃなくて、ただ隣で不条理に対して怒る。
結局はどう思ってるかなんて本人しかわからないんだ。自分の思ってる哀しいと相手の思ってる哀しいは別かもしれない。
だったら、あくまで自分が哀れみたいからそうしていることを認めた上で、ただ相手に寄り添う事が最も良質な哀れみなんじゃないか。
哀れみと応援
可哀想という感情を質の高い応援に変換出来る人は、哀れまれる側からしたら理想だ。
可哀想だって言ってるより、目の前の問題を解決する糸口を提示してやる方が建設的なんじゃなかろうか。
まとめ
質の低い哀れみは人を追い詰める。
質の高い哀れみは人を支える。
私が困っている時、幸福なことに私の信頼する人達は質の高い哀れみと応援をくれた。
これは非常に力になった。感謝しかない。
代わりに自分が哀しむんじゃない。
寄り添い共に哀しむことが本当の哀れみだ。
同情するなら愛をくれ!
※金でも可
(了)