Jeepers Creepers

眠れない夜を、語り明かせるシェアハウス

めもめも...

記憶なんて生きるジャマだぜ

 

 


「マクロすぎる視点はあんまり人を幸せにしないのかもしれない。」(少女終末旅行4巻あとがきより)

 

例えば星空を見上げたときに、宇宙の果てしなさとか、地球が紡いできた途方もない歴史を引き合いに出して、自分という存在だとか人類全体のことをちっぽけな存在だと規定して、感傷にひたる?いや救いを求める?的な行為があるけれど、結局のところ圧倒的な存在や概念とちっぽけな自分を比較する行為の最終的な目的はなんなのかわからない。

宇宙は宇宙だし、地球は地球だし、人間は人間。

 

ヒトの...ヒトという一つの生命体の始まりを拡大解釈すれば、いまここにいる自分は元を辿ればビックバンから生まれたということにできなくもない。それとも宇宙が始まる前、「始まり」の始まりこそがほんとうの始まりなのか。

 

昔々はるか昔の、それでも宇宙の歴史にしてみればつい最近の科学者や哲学者は、世界の成り立ちを火で、水で、土で、数で、原子で定義したわけだけど、なんだかんだで今のところ17の素粒子がこの世全てを作り出しているとのことだそうだ。

 

では、あの果てしない星空も、この地球も、そこに息づく命も、自分も全部が全部同じ「材料」でできているならば、比較もなにもなく、そこにはスケールとしての違い、もっと陳腐な言い方をすればサイズの違いでしかないということになるのか...

 

「マクロすぎる視点」

 

つくみず先生は、人の世についての考察の意味合いとして言ったんだと思う。

 

弾薬から核弾頭まで全部分解して無害化するぬこ(仮称)はたぶん地球の自浄作用か何かだろう。

宇宙や地球と同じ材料できている人間は、人間しか持ち得ない理由で争い続けた結果として終末を迎えて、そのあと始末を地球がちゃっちゃとこなしていく...

そう考えると皮肉ともとれる。

人類は有史以来、数多くの発明をして、結果としてスイッチ一つで世界が滅ぼせる段階にまで発展したわけだけど、巨大になりすぎたからこそのあっけなさという皮肉はある意味お約束だ。

ただ、人類の歴史をそういうふうに総括することで隅に追いやられるのは、「ぼく」や「わたし」の積み重ね、「ぼくたちの営み」に他ならないわけだ。

ご飯を食べて、働いて、友達と遊んで、子孫を残して、文化を残して。

宇宙の始まりから数えてここにきたとして、そのプロセスの途中で生まれたものを大局的な秤にかけて「人類は結局愚かでした」のひとことで片付けるのはやっぱり寂しいかもしれない。

というか悔しい?

 

僕がマクロな考えをするときは「安心したい」とか「諦めたい」とかそういうモチベーションだ。

星空を見上げるのも、歴史を思うのも自分も人間もたいそうなこと言ってもどうせしょーもないんだから、しょうがない。

そういう精神安定剤。

ただ、それは自分がいままで曲がりなりにも生きてきたことの全否定に繋がりそうな時があって、やっぱり悔しい。

 

チトとユーリがケッテンクラートで旅する世界は、全部終わった後の世界で、ある意味「始まり」に最も近い状態でもある。だけど「終わり」の終わりがまだ来ていない。

そう、終わるまで終わらないわけだからそれまでは始まらない。

 

人間が始まった時のことを知ろうとするのは、終わったあとに始まることを確かめたいからなのかもしれない。