どうも
にじくろ改めムラサキヒバナ略してむです。
前回のやつにほんとは入れたかったけど長すぎてやめたやつを書きます。
オタクになりきれないなにか
前書き
永い言い訳
VTuberとの出会い、画面の向こうに見た世界
突然だが僕はVTuberのオタクである。
2017年の11月あたりに僕はVTuberに出会った。
2016年からキズナアイちゃんが活動していたことは知っていた。なんだったら自己紹介動画もちらっと見ていたが、当時はなんかアニメ作品の一環かなぁと思っていた。コメント欄が外国人で埋まっていて、日本人受けまったくしてねぇな...なんてことを思いつつ特に深追いはしなかった。
それからしばらくたって2017年冬。僕はメンタルがボロボロのピークを迎えていて、今まで楽しめていた趣味も娯楽もまったく心に響かなくなっていた。
ぼーっとYouTubeを眺めていたとき、当時まだチャンネル登録3000人くらいだった電脳少女シロちゃんのゲーム実況をなんとなしに見た。そのとき僕は初めてVtuberを「概念」として理解した。
アニメとは違う、しかし単にガワを被っただけの人間かと言われればそうではない。虚構と現実のあいまいな存在が画面を挟んだインターネットの世界で息吹を上げようとしている。
一つの文化の”始まり”を今まさに目の当たりにしているというワクワク感とこれから何が起こるんだろうというドキドキ感が死にかけていた心を蘇生させたのだ。
僕が追いかけ始めた当時は数える程度の企業が打ち出したVTuberと、「個人勢」と呼ばれるVTuberの先駆けとなったのじゃろりおじさんくらいなもので、本当に手探りのなかでああだこうだやってる感じがあった。
そして2017年12月。空前のブームがやってきた。
まあ原因こそ例のアレな感じだが、ともかくその時期一気にVTuberは影響力を拡大し、VTuberの数も視聴者の数もエグイ勢いで増えた。
特に見るストロングゼロこと輝夜月ちゃんの登場はとても印象に残っている。
2017年12月9日、ブーム真っただ中に現れた彼女は更新頻度がほかに比べて少なかった。年内に上げた本数でいえば5本くらいなものだったが、わけわからん勢いでゴリ押しするだけの動画は新鮮かつインパクト大で、ほんの一週間かそこらで登録者を10万人に伸ばし、年が明けて2018年の1月初めにはもう30万人を越えていた。1月時点で100万人を越えていたキズナアイちゃんに次いで2位だった。
ミライアカリちゃんの初生放送もよく覚えている。放送事故は起こるわ、アカリちゃん号泣するわ、いまでこそ珍しくもないが高額の投げ銭がポンと飛び交うわでびっくりした。この時給27万の女事件で僕はYouTubeの投げ銭機能を知った。
のじゃろりおじさんに触発されて個人でもVTuberを始める人がちらほら出てきた。
技術力のあるハイクオリティなものから、急場しのぎの粗雑ものまで玉石混合だったが、みんなやりたい放題やってて僕はその雰囲気がめちゃくちゃ好きだった。
2018年2月にはそれまで3Dモデルが主流だったVTuber界隈に、企業で初めてlive2Dかつタレントグループという形でにじさんじが参入した。
インターネットの申し子といわんばかりの月ノ美兎委員長は、2Dだろうが面白いものは面白いということを証明した。にじさんじは所属するタレントをバーチャルライバーと称し、生放送主体のエンーテイメントを提供。現在まで続く生配信主体のVTuberのロールモデルとなった。みとらじ第一回は伝説に立ち会えたと思った。
とまぁ、ここまで書いた分なんてほんの一割にも満たないほど、あの短期間でとてつもない数の出来事があり、僕はそのたび胸を躍らせていた。そのころはまだ母数も少なく詳細までは把握できずとも、企業、個人問わず全体の雰囲気を楽しむ余裕があったと思う。
それまでネットミームとあまり縁のなかった僕は、すでに時期を経た文化の後追いしかしてこなかった。だからだろうか、僕はVTuber文化の創成期のような2017年末から2018年初期に立ち会えたことを変に誇らしく思っている。
画面の向こうの存在から、コミュニケーションの対象へ
2018年5月あたり、VTuberの数は3000人ほどだったか。
「ブームは終わった」とささやかれ始め、VTuberもVTuberであることの目新しさがなくなり純粋に面白さで勝負する時期になってきた。
そのころから、にじさんじ以外の企業もグループでの売り出し方に舵を切り、それぞれのグループでのファンのコミュニティが形成されていった。
全体がそうとは言わないが、VTuberは“アイドル”としての概念を確立し始めた。
多くのファンがあらゆるグループの中で“推し”を決め、その推しのファン特有の名称を名乗り、推しのシンボルとなるマークをTwitterの名前に刻み、配信のコメントやTwitterのリプなどで積極的に感想を送る。
もちろんこういった現象はその以前からあったが、この時期からその動きはどんどん加速していったように思う。
生配信というシステム上、必然的にそこで生まれるエンターテイメントはVTuberとファンの交流によって形作られる。
VTuberのアクションにファンがリアクションを返し、それにまたVTuberがリアクションを返す。作り手とユーザーのコミュニケーションが生み出す創造性。インターネットとデバイスの普及が可能にする持続的なユーザー参加型コンテンツへと、VTuberはシフトしていった。
僕はVTuberを“画面”という物理的な境界線を強く認識しながら楽しんでいた。それはそのまま「“こちら(現実)”から決して干渉はしないし、できない」という精神的な境界線にもなっていた。あくまで僕は外側で見ている傍観者で、繰り広げられるエンタメをただ眺めて楽しんでいるだけの存在。実際それでよかった。
VTuberを好きになってから僕にも推しといえる存在はいたけど、生放送のコメントもTwitterのリプも、“こちら”から可能な直接的アプローチは一切しなかった。
それはなんだか僕のVTuberに対する向き合い方にそぐわないし、なにより僕の心中にあるVTuberの“世界観”を壊すような気がして。
しかしそんなVTuberの流れに違和感を持っていたわけではない。インターネットで生まれたコンテンツとしては自然な流れだ。
ただ、興味もあった。
芸能人や実際にいる人間から反応をもらうのとはまた違う、VTuberという虚構と現実がない交ぜになった存在に反応を貰えたら。
それはどんな気分なんだろう。
アニメや漫画のキャラクターから反応をもらう、その疑似体験ができる。そんな言説もあった。たしかに架空の存在や世界に恋い焦がれる身にはそれはどんなに嬉しいことだろう。
ある時、僕は「これだ!」と思えるVTuberを見つけた。生配信主体で、めちゃくちゃ面白くて、何よりファンとのコミュニケーションに物凄く積極的だった。コメントとのやり取りがとても上手で、場の流れをコントロールしているさまに見惚れてしまった。
2、3ヶ月ほどROMってたあたりで、ふと、
楽しそうだな...
初めての感情が首をもたげたことに若干戸惑いながらも、意を決してコメントを打った。
僕のコメントは僕以外の多くのコメントの濁流に飲み込まれていった。反応なんてもらえる由もなく、ただの自己満足だったけど、その瞬間、今まで蚊帳の外だった自分がこのエンターテイメントの輪の端っこであっても参加できたかのような気持ちになれた。推しにリプを飛ばしたりする人の心象が理解できた気がした。
僕は不干渉を貫く精神的な境界線を自ら踏み越えたのだ。
それ以降、日に日にコメントを打つ回数が増えていき、配信でのコメント以上に抵抗のあったTwitterのリプも飛ばすようになった。
なにごとも回をこなしさえすれば心理的ハードルはどんどん下がっていくように人間はできているのだと実感した。
いつの間にかではなく、完全に自明のうちに僕は他のファンと同じように推しのファン名称を名乗り、推しのマークをTwitterのプロフィールに刻み、その一体感に身を興じるようになっていった。
自分のコメントにリアクションをもらえた時は本当にうれしかったし、Twitterのリプに返事が来たときは思わずスクショした。
典型的なオタクである。
楽しかった。
本当に楽しかった。
推しに嬉しいことがあれば自分事のように嬉しかった。悲しいことがあればまた同様に。推しが着実にステージを踏んで成長していくにつれて、応援する気持ちもどんどん大きくなり、推しのファンであること、推しにとってその他大勢だとしてもファンと認められていることの充実感と感謝の念に満ち満ちていた。
オタクになりきれないなにか
2020年、現時点でVTuberの数も10000人に増えた。
死ぬほど飽き性な僕は、もう2年以上同じコンテンツを追いかけていることに結構驚いている。
VTuber界隈もこの二年で色々すったもんだがあり、大きく様変わりした。
変化を受け入れられず離れた人や、単純に飽きてしまった人も見たけれど、なんだかんだで僕はVTuberが好きだ。
ただここ最近、自分の中である「違和感」を抱えていることに気づき始めた。
前述したことに通ずるのだが、僕はVTuberに限らずありとあらゆるエンターテイメント、特に「人」が携わるエンタメからは心理的に“距離”をとって楽しむよう心がけている。
なぜかと言うと、他人に入れ込みすぎるとその対象が起こすムーブメントに、心のバイオリズムをめちゃくちゃ乱されるからだ。
なんかそれなりのことを言ってカッコつけたけど、要は他人への依存度が高くてめっちゃ影響受けやすいのである。
感情移入しすぎて相手が泣くとこっちもボロボロ泣く、とかそういうのではない。(むしろ感情移入ができなさすぎてコミュニケーションが死)
そういうのではなく自分の人格の軸となる思想・思考を、他人の思想・思考にインターセプトされやすいと言ったほうが正しい。
しかし、そうやって植え付けられた思想・思考は最初のうちは馴染んだように思えるがある時途端に拒絶反応を起こす。
その拒絶反応によっておこる脳内主人格争奪戦。
元人格「やめてぇ!出てってぇ!!」
別人格「もうこの“味”を知っちまったったら元には戻れねぇんだよッ!オラッ!死ねッ!!」
元人格「ん゛お゛っ゛♡♡♡」
さながら、NTRモノでチャラ男にめちゃくちゃに弄ばれて、ふと彼氏のことを思い出して激しく後悔するもすでに快楽に抵抗できないヒロインのようである。
ふざけた表現をしたけれど、これめちゃくちゃストレスで、結果どうなるって自分の行動指針がブレブレになって物事の価値判断、取捨選択が壊滅的になる。
ふつーに生活に支障きたしてやべぇのは衝動買いとかしてしまう。非常にまずい。
なので、絵、文字、音、映像、情報化され、デジタル化され、「再現性」を獲得した“作品”を愛するのはとても安心する。
つまり、それはどこまで行ってもこちらのバイオリズムとリアルタイムに同期することはないからだ。
つまり、この空間と時間に“彼ら”は干渉できないしこちらも干渉できないからだ。
つまり、僕の大好きな草薙素子(S.A.C.版)は、記憶の中で“草薙素子”で恒久的にあり続けるからだ。
つまり、切り分けて考えることができるというのは本当に楽だからだ。
ただそういった作品だって、携わるのはつまるところ人だ。
そこの線引きはなかなか難しい。
例えばアニメ。
特に声優さんなんて、最近はめちゃくちゃ存在感が押し出されている。
僕は好きなアニメキャラの声優さんくらいは知ってる程度なもの。ラジオとか聴いてた時期もあるけれど、なるべくその作品に携わる上での姿勢や感想などは熱心に聴いて、基本的に声優さん自体のパーソナリティは深く知ろうとしないようにしていた。
例えば音楽。
特にライブでは、ミュージシャンが客を煽って手を振らせたり、「一緒に歌って!」的なことを言ったりして一体感を出そうとすることがある。けど僕はあくまで音楽を“聴きたい”ので、そういう意味でライブがとても苦手だ。
生の音を体感はしてみたい、けれどあの一体感は曲をに集中するうえでノイズになる。
そのジレンマから、好きなミュージシャンであってもライブに行きたいとなかなか思えない。
最近はライブをネットで中継してくれたりするので画面越しで“聴く”ことに集中できていいなと思う。
とにかく、くどくどと僕のエンタメへの姿勢を語ってきたけれど、要するに今の自分のVTuberの楽しみ方ってこれと矛盾してるやん。ってことなのである。
コメント打つわ、リプライするわ、もうなんなんだって感じである。
オフィシャルグッズまで買ってて、これはマジで自分の中では衝撃の部類。
よく部屋の中を推しのグッズで埋め尽くしてるオタクの図なんかを目にするが、あれほんとうに尊敬する。(皮肉じゃなく)あそこまでのめり込んだら俺なんてどうなっちまうんだって思って、今までサブポジション的なグッズの購入は基本避けていたのに...。
そんなわけでいま、めちゃくちゃ「これじゃない感」がすごい。
VTuberの投げかける言葉に自我が埋め尽くされる感覚を覚えた時、「あ、完全に距離感を間違えてしまった。」と思った。自他境界がぶっ壊れてる人はインターネットでよく見かけるけれど、僕がまさにそれになってた。
もちろん最初に言ったとおり、VTuberは好きだ。ただ自分のスタンスと現状の食い違いに疲れてきただけである。
多分、どんなに何かに入れ込んだとしてもどこかで自分の領域、自我が埋め尽くされることに本能的に拒絶反応を起こすようになっているんだろう。
それは今までいろいろ痛い目を見た経験上培われた条件反射なんだろうけど、もうちょっと早く発動してくれ。完全にアホである。
とにかく早急に自分のスタンスに合わせて行動を修正しなければならない。
差しあたっては、VTuberに対する認識が「人」に寄りすぎてしまっていることへの対処だろう。
これに関しては魂(中の人)ありきかつリアルタイムを楽しむようになったV界隈の性質上仕方ない部分もあるけれど、僕が好きになるきっかけになったあの頃の現実と虚構が曖昧な感じを持っているVTuberもいるのでとにかくそれで初心を思い出そう。
僕が求めているのは現実と虚構のバランスだ。存在しないんだけど存在してる、っていうあの説明がめんどくさい感じだ。
そして僕自身の行動だ。
コメントもリプも僕のスタンスからすれば過干渉だ。あの2018年に踏み越えてしまった境界線をもう一度引き直す。
そう、僕はたまにTwitterで動画のURLを共有して「良き」とかボソッ言うクールを気取った痛いオタクに戻らなければならないのだ。
こんな、懺悔にもならないひどい言い訳をつらつらと書き殴りでもしなければ心の整理がつかない。それほどまでにVTuberが僕に与えた影響は大きい。
後書き
VTuberはもはやハマっているものではなく、習慣と化しているのでもう切り離すことはできないしこれからも追いかけ続ける。
ただ、今よりも少し遠く離れた場所からになるけれど、それはもともといたはずの場所からになるだけのことだ。
ステージ前の席から立ち見席に移るくらいなものだ。
でもいつか、なにか恩返しができたらいいと思う。