お久しぶりです。新です。
廃人やってました。
文章に触れなさ過ぎているので、リハビリがてら久々に更新します。
ちょっといろいろあって、というか、金、家、家族等色々と失って、とどめを刺すが如く恋人にも愛想をつかされ、気力がなにも湧かなくなり、田邊さんの家でほぼアーマードコアやりながらテニプリ垂れ流すだけという糞尿作成装置になっていたわけだが、そのときにいろいろと考えたことを書いてみようかと思う。
今回は完全な私記のうえ、哲学のにわか知識で書くので、哲学のことについてご指摘があれば、ぜひお願いしたい。
哲学する
先に哲学の定義をしておこう。
ちゃんと書くと長くなってしまうので、手短に書くが、私に哲学を教えてくれた先生の言葉を借りれば、
ある一つの疑問について思考すること
が哲学するということである。
他人の思想を切り貼りして、自分の都合よく解釈したものを提示することは哲学ではない。知識をひけらかしているだけである。
何かどうしようもなく惹かれる問いがあって、それについて考える、また、それについて考えた先人に浸りついて考えることが哲学するということである。
それゆえに、哲学が本当に必要な人間だけが哲学するのだ。
ということだそうだ。
わかってもらえない疑問
私とは何か?
そんなことを考えたことがあるだろうか。
多くの人は考えないことであると思う。
私はよく考える。そして閉じこもってた時にずっと考えていたことでもある。
こういう話を他人にしようとすると、論点をずらされることが圧倒的に多い。
「そんなこと考えるからつらくなるんだ」
「考えすぎだよ。どっかで女でも抱いてこい」
「ちょっとは運動したらどうだ?」
だいたいどれかを言われる。俺だって、考えたくて考えているわけじゃない。
仮に「なんでこんなつらい思いして生きなきゃならないんだ」という「個人的な悩み」を解決したいというのであれば、上記の言葉は有効だと思う。
しかし、そうではないんだ。
私は私の存在がどういうものなのかわからないまま生きていることが気持ち悪くて仕方がない。
それは個人的な悩みに留まるものではなく、いわば公的な疑問である。数学で言ったら一般化された式である。個人的な悩みから始まって、それを私は誰にでも起こり得る根源的な問題として一般化してしまう癖があるようだ。
私だけではない、みんながそれぞれ私であり、それはどうして私たり得るのか?
つまり
私とは何なのか?なぜ存在するのか?
このような質問をすると、DNAがどうとか、脳科学がどうとか、そういう話をする奴がいるが、それも論点がずらされている。人間がDNAからできているのはわかったが、それでもどうして私は私なんだ?
世界には私を主観的に認識できるのは私しかいない。私視点で見たり聞いたりできるのは私しかいない。じゃあ私ってなんだ?
永井均の本の中で、それは超公的な理性の使い方だ、という記述があった。そういうことを考えて生きることは、ミルの言葉を借りれば、不満足なソクラテスであることなのだと思う。満足な豚として生きれればどれだけ楽だったことか。
だけど、所謂普通の幸せだけをもとめて、理性を私的な使い方だけに限定して、思考を停止して生きることを私はとても空虚であると思う。というか、思ってしまう。否定はしないし、むしろそう生きたほうがよっぽど「いい人生」が送れると思うが、私にはできない。そういう人間には決して見えない世界があって、思考を繰り返した人間だけが到達する「そこ」に何かを見出している。
このような疑問について考えることは、私にとっては生きる上で必要なことである。
哲学の本を読んだ
昔、ウィトゲンシュタインをモチーフに使ったエロゲに嵌ったことがあったのを思い出した。それは私にとって衝撃的な内容で、存在について考えさせられた覚えがある。
私はいくつかの本を読んでみることにした。
「論理哲学論考」 ウィトゲンシュタイン
「意志と表象としての世界」 ショーペンハウアー
「ウィトゲンシュタイン入門」 永井均
「仏教3.0を哲学する」 藤田一照、永井均、山下良道
「哲おじさんと学くん」 永井均
読み終えていないものもあるし、理解が浅い部分もあり、依然私という存在は私の中ではふわっとしたままであるが、どう生きるかの方針は見つけることができた。
現時点での回答として、ここに記してみようと思う。
「私」ってなんだ?
これをここでやりだすと、終わらなくなってしまうし、この記事だけで完結させたいので、さわりというか、結論だけ書こうと思う。
私はただここに存在しているだけの存在である。ここに存在しているから存在するのだ
めっちゃトートロジー…
私とは何故か意味もなくここに存在していて、その存在について言語で表現することは不可能だ。
例えば、自分が死んだあとの世界を想像してみて欲しい。
自分が死んだ後の世界を想像した時、自分が死んだ後の事を想像する自分が存在することに気づくだろう。私が、私が完全に存在しない世界を想像することができないように、私がただここに存在することも説明することはできない。
語りえぬものには沈黙せよ
論理哲学論考という本の最後にこの言葉が書かれている。
論考でウィトゲンシュタインがやりたかったことは、言語で語れる範囲と語れない範囲を分けて、線引きをすることだ。
彼は、生きる価値とは何か、どう生きるべきか、美しさとは何か、このようなことは言語では語れないものであるということを言いたかったのだと思う。
そして、それらは語られることなく、示されるものだとも言っている。
私はそういうような事柄を示すものこそが芸術なのではないかと思う。
言語で語れないものを示すことこそが芸術なのである。
哲学は思想を残す。
思想とは、哲学された結果できてしまった道筋であり、これが私の現状の思想である。そして、その思想にとらわれず哲学し続けなければならないだろう。
私にはそうする必要があるのだから。
(了)