どうも。
ここ数ヶ月の間に考えがコロコロ変わって「まぁそれでいいや」みたいな、にじのくろねこです。
初回の自己紹介記事とか読み返すと、あれもう別人にしか思えないけどあれも自分自身なのでした
過去のパーソナリティとの乖離感がえぐい。
さて相変わらずのガバガバ知識と言語化へたっぴですが、気にせずだらっとやっていきませう。
引きニートの机上の空論ですゆえ異論は全て認める。
前回http://yuuki167a.hatenadiary.com/entry/20180220/1519113610
Vtuberを通して見えてくる未来のカタチ、人間のカタチ
人間のカタチ編
いきなり独断と偏見で、物を言わせていただくのだけれど
ある継続的あるいは断続的に発生する問題の解決を個々人の心掛けに委ねるなんて解決策として論外だろって思うんだが
どうだろう。
今回は相変わらずVtuber沼にどっぷりハマっていてどうしようない人間であるこの僕が、VRのエンターテイメント性の視点から少し離れて、VRの技術が人類の抱えるある問題を解決するのではなかろうかという話をする。
まず「人類(ホモ・サピエンス)」の抱える問題についていろいろ考えるとき、まず人間をどう捉えているかでだいぶ話の進め方が変わってくると思っている。
とりあえず、人類の解釈の仕方としてざっくり二つに分ける。
人類のざっくり定義
- ある文化ないし社会体系を形成する主体の集まりの総称および概念 =「人間」
- 生物学上定義される動物の種=「ヒト」
僕はヒモ・サピエンスになりたい。
おほん。
僕は「人間」は苦手だけど、「ヒト」は結構シンプルで悪くないと思っている。
で、だいたい「人間」と「ヒト」をごっちゃにして考えて問題に対処すると、途端に思考はモヤモヤに包まれ原因がどこにあるかが分からなくなっていくのだ。
さて、今回議題にあげる人類の問題。
それは
「差別」
これ、VRで解決できるんじゃね?って話をしていく。
VRがどのようにして差別を解決するのかは、差別がどんな原理で起こるのかを突き詰めていくことで分かってくる。
では、差別についてそもそもの話をしていこう。
まず差別はさっき上げた人類の二つの定義上のうちの「ヒト」が巻き起こす問題だ。
もっと噛み砕いていえば、生物が生物として当然のごとく備えている「生存本能」が起こす問題だ。
思想の違いとか、国や地域の文化の違いとか、肌の色の違いとか、職業や立場の違いとか、セクシュアリティの違いとか、性格や趣味趣向の違いが原因ではない。
それらの「違い」はあくまで差別の対象になるものであって、原因ではないのだ。
「違い」があるから、「違い」を受け入れられないから差別が起こるという考え方は、上記のざっくり定義上「人間」の視点から見た場合だ。
あくまでも概念に寄った考え方だろう。
しかしながら「差別」がなぜ起こるかといえば、もうヒトがヒトである以上それは必然なのだ。
「差別」とは人間が生物として生存していく上で身につけざるおえなかった能力が起こすのだ。
その能力とはつまり「偏見」だ。
※「偏見」の原理についてもっと詳しく知りたい方は漫画「パンプキンシザーズ」の21巻の105話と106話を読んでみてほしい。
人間には感情が備わっている。
そして様々な感情の中でも特に生存に関わる感情こそは「恐怖」だ。
恐怖こそ偏見を形作る原初的感情だ。
火を恐れ、獣の鋭い牙や唸り声を恐れ、毒のある生き物の警戒色を恐れ、視界のない暗闇を恐れるその感情は、知識や経験にのっとり統計され推測に変わる。
現人類がまだ、数も生存区域も少なく、個体生命の維持存続だけを命題に生きている動物に近い営みを行なっていたころならば、それは「ただ生き残る」と言う命題のもと、対して実に効果的により良く作用しただろう。
「近づけば危なそうだ」
「触ったら毒がありそうだ」
「一歩踏み出したら落ちそうだ」
五感で認識し得る範囲の情報に対する直感的な恐怖心からくる推測や仮定が、反射的な危機回避を行い生存確率を上げていった。
あらゆる可能性を検証するための手段もが現代に比べて圧倒的に少なく、また純粋な生存に関わる情報以外は特に必要ではなかったからこそ、偏見という生存本能は非常に使い勝手が良かったのだ。
しかしその後、数を増やし、生存区域を増やし、地域ごとに異なる社会や文化を構築して概念のやりとりを行うようになり、社会生活を始めた人類は「ただ生きる」だけではやって生きていけなくなった。
そして社会の増大に比例して増え続ける情報に対して必然的にその偏見の枠を大きく広げざるをえなくなったのだ。
膨大な人口に対処するために、個人は、市町村、県や州、国とより大きな枠組みの中で統計されていく。
そしてその中で所属する社会や文化やコミュニティの持つ文脈から様々なイメージを持たれることになる。
そう言ったあくまでも記号に対して、人々は時に偏見を向けるようになった。
偏見は、生存を脅かす自然界の危険から、自身の所属する社会や文化と異なるルーツをもつ社会や文化へとその対象を移したのだ。
だがそれも致し方ないことだ。
膨れ上がった人口に対して、一人一人と対話し内面を吟味して判断していくようでは個人の時間では圧倒的に足りない。
故に統計し、傾向を探り、記号を当てはめるのだ。
誰もが誰かに対して偏見の目を向けている。
まったくの例外はない。
それに1対1であっても内面を完全に理解し合うことなど不可能に近い。
身にまとう衣服に誘導され、表情に誘導され、身振りや仕草に誘導され、声色や語気の強さに誘導され、バイアスがかかり特定の感情を抱いてしまう。
とにもかくにもカタチにこだわるのが人間なのだ。
カタチにこだわりカタチに偏見を抱く生き物それが人間なのだ。
そこでVRだ。
カタチを自由自在にデザインできることが大前提であるVRにおいて、カタチなど瑣末な問題になる。
雑なこと言うと
「カワイイは正義」というやつだ。
カタチにこだわるというならば、偏見が良い方向に向かうように、本能が辿る導線をデザインしてしまえばいいのだ。
差別そのものをなくすことで解決するのではなく、差別を逆に利用してカタチによる障壁を皆無にすることで解決させる。
こちらのVRchatの映像をちらっと見てほしい。
実に可愛らしい容姿のモデルを纏った人達がキャッキャウフフと戯れる様子が垣間見えたと思うが、その実中身はほとんどおっさんである。
(※おっさんじゃない人もいるはずだよ!)
これ何が言いたいかっていうと、ガワ(モデル)のデザインによって、本能を実に友好的なイメージへと誘導することが可能なのだ。
そのガワのデザインが、モデルを製作した当人の理想がふんだんに表現されていればいるほど、それは効果的に作用する。
カワイイモデルじゃなくても、無機物のようなロボットデザインでもいいし、ファンタジーなドラゴンや妖精と言った人から掛け離れたものでも構わない。
本人の思い描く理想の姿を少なからず投影できるVRでは、本人の内面性だけが浮き彫りになり、本当の意味での「中身で人を判断する」ということが可能になるのである。
カタチの制約から解き放たれ、外的要因からくるバイアスに惑わされず、本質的な内面性や精神性だけを評価して、ちゃんと好きになったり嫌いになったりになったりできるかもしれないのだ。
つまりVRが提示する未来における人類は既存のカタチの概念を捨てた新しいカタチを手に入れることになる。
まあ、机上の空論ではあるかもしれないが、一部ではもう巻き起こっていることだったりする。
まあ、とにかくVRおもしれーから見てみろよって話です。(クソ雑)
さて、圧倒的まとまりのなさを披露したところでトンズラします。
さようなら。